経営者に、聞く。LEADER INTERVIEW
聞き出す力を、切り出す力へ
PROFILE大東精機株式会社代表取締役社長杉本 真一氏
高層ビルや住宅、橋梁に用いる建築資材のなかでも、特に重要度が高いのが躯体を構成する鉄骨だ。
私たちの社会生活をあらゆる場面で支える鉄骨だが、構造物の体をなすには切り出す過程が欠かせない。
その役割を担う鋼材加工機というニッチ市場で、長らく先頭を走り続けているのが、大東精機株式会社。
100%自社開発というプライドに裏打ちされた、孤高のものづくりの裏側を杉本真一社長に聞いた。
この刃が1秒間に約1m回転することで鉄骨を切断する。熱が入らないので、鉄骨を変形させることなく正確に切り出すことが可能だ
温め続けた技術力が後発組を先発組に
建築物の柱や梁、橋梁の桁といった主要構造部は、大小さまざまな鉄骨部材を組み合わせて造られる。長尺の鋼材である鉄骨を部材単位にまで落とし込むには、適切な長さへの切断、ボルト接合のための孔あけといった、一次加工と呼ばれる工程が不可欠だ。これら鉄骨加工の最上流、その後の作業に大きく影響する部分に、大東精機の鋼材加工機は威力を発揮してきた。とはいえ、その船出は必ずしも順風満帆ではなかった。
杉本社長の父で現・相談役の忠博氏は、温め続けた技術力が後発組を先発組にもともと機械設計を生業としていた人物。しかし、技術者として腕を上げるにつれ、感情に変化が生まれていったという。
「図面を書くだけでは物足りなくなったようです。次第にメーカーを興したいと考えるようになり、着目したのが帯状の刃で金属を切る帯鋸盤、つまりバンドソーでした」
ドリルマシンの試運転を経た鉄骨。材質や加工目的によってさまざまなドリルが用意されている
そうして義父の千田豊氏と尼崎の地に大東精機を起業し、最初のバンドソーを世に送り出したのが昭和34年(1959)のこと。
経済復興の折、金属需要の高まりを見込んでの新規参入だったものの、後発組とあって創業からしばらくは足踏み状態が続いた。潮目が変わったのは、金属加工技術がいっそうの進展を見せた1970年代だった。それはすなわち、今日に至るまで盛んに用いられているH形鋼の普及である。
その名の通り、断面がH形をしたH形鋼は、高い剛性とコスト性能を兼ね備えた画期的な鋼材。建設ラッシュ下において重宝されつつあったが、専用の切断機がなく汎用機での作業は職人の腕頼みだった。そこへ目をつけた忠博氏はいち早く開発に着手。昭和46年(1971)、H形鋼に対応したバンドソーマシンを作り上げ、今度は先発組に転じる。スピード決着の背景にあったのは、100%自社開発の体制で培った技術力だった。
誰もが一度は目にしたことのあるH形鋼。日本の厳しい建築基準法に適合したDAITOブランドは海外でも支持される
「尼崎周辺は金属加工業者が多く、部品はそこから調達しました。地の利もあって、父たちは開発や組み立てにリソースを集中できたのです。のちに角度切り機構の特許を取得すると、全国から注文が舞い込みました」
遅れて昭和50年(1975)には鉄骨にボルト接合用の孔をあけるドリルマシンを発売。H形をなす3面それぞれに自動で孔をうがつ機構は、現場にさらなる省人化をもたらした。以降、大東精機は製品の高性能化とラインナップ充実を基軸に、着々とニッチトップの地位を築いていく。杉本社長が入社する昭和58年(1983)には、年間売上高は30億円規模に。旺盛な設備投資を受けたバブル絶頂期には130億円を超え、330人もの従業員を抱えるまでになっていた。
経営危機に瀕するなかで見えてきたプライド
ところが、バブルが崩壊すると同時に経営は暗転、売上は年に数十億円の単位で落ち込んでいく。状況はなかなか改善せず、2000年には全盛期を100億円以上も下回る23億円の売上に留まり、6億円の赤字を計上した。この間のもうひとつの経営圧迫要因が、人事面での失策である。バブル期、大手コンサルタント会社と策定した長期経営計画に固執し、景気後退期にあってもなお増員を続けていたのだ。
「結局、2000年に100人規模のリストラを敢行しました。頼みの商品力も競合に水をあけられ、社内の雰囲気は最悪でした」
鉄骨加工の現場に省人化の恩恵を与えてきた大東精機を襲った、あまりに皮肉な現実。杉本社長のストレスも相当なものだったが、父の言葉が変化のきっかけをくれた。
「ちょうど40歳くらいのときに『創業50周年のタイミングで社長を引き継いでくれ』と。若いころは自分を高めるような努力を怠り、社長になる自覚も乏しかったのですが、慌てて経営者の集まりに参加するようになりました」
それまで縁遠かった世界は、自身や会社を相対化する場になった。昭和一桁生まれの父の姿を見て、何事も率先垂範するのがリーダーだと信じていたが、その枠にはまらない経営者が少なくないことを知った。自らの能力や特性が活きる経営手法を編み出せばいい、そう思えるようになった。そして何より、父の興した会社がいかに稀有な存在であるかを悟った。
組み立ては職人技によるところが大きく、ライン化ができない
「全国には製造業だけで数十万の会社がありますが、大多数は下請けです。一方で自主独立の道を歩んできた我々は、自社のロゴマークをあしらった最終完成品を製造できる。そのことが誇らしく思えました」
この時期の大東精機は、一次加工の全工程を一括化する業界初の自動生産ライン・DASPを発売するなど、開発主導のものづくりへの原点回帰を図っていた。あるべき姿を取り戻した結果、経営は徐々に回復基調に入った。
開放的な開発フロアはカフェを思わせるインテリアが特徴
独創性の源泉を社員と考え、整える
2009年、杉本社長はいよいよ会社の舵取りを担うことになる。前年にリーマン・ショックが起きる波乱の幕開けも、ニッチトップ企業の本分を貫くことを基本戦略とした。
「自主独立のメーカーであるうちの場合、顧客ニーズを拾い上げて自ら開発テーマを設定しないといけません。バブル同様、経営は苦しくなりましたが、ここで改めて特注対応やアフターサービスを徹底して、競合にまねできない独自の製品開発につなげようと。結果的に新たな複合機の開発に成功するなど、再び歯車が噛み合ってきた感触がありました。就任直後は苦労しましたが、そこから盛り返すことができました」
全社員にスマートフォンを支給し、フリーアドレス化を後押し
こうした過程のなかで、杉本社長は自身にふさわしいリーダー像を理解していく。それはつまり、技術者で何事も単独でやろうとする父とは異なる、調整型の経営者である。社員全員と面談の場を持つなど働く側の声には進んで耳を傾け、折々の経営判断につなげた。
なかでも腐心したのが労働環境の刷新だ。健康経営を推し進めるべく、かつての書庫はトレーニングジム・DAITO GYM-CLUBに姿を変えた。社員食堂はコロナ時代にそぐわないとの判断から、フリーアドレスも可能な開発フロアに衣替えした。いずれも社員との相談ベースで構築されたものだ。杉本社長は改革の狙いをこう語る。
「バブル崩壊からリーマンまで節約続きで萎縮していました。雰囲気が沈んでいると、技術革新につながる発想も出てこない。技術畑ではない私がやるべきは、環境整備で開発をサポートすることだと考えました」
資格取得のサポートに自習室も完備
足場を整えたうえで目指すのは、二次加工の溶接なども含めた鉄骨加工の完全自動化だ。
「一次加工ではすでに業界トップの評価をいただいていますが、少子化で人手不足が進む以上、生産ライン全体の自動化をコーディネートできないと。鉄骨加工の工場のことなら、全部大東さんに任せればいい、そんな会社が目標です」
競合の少ない状況に慢心せず、まだ見ぬ境地を切り開こうとしている大東精機。杉本社長はよきコーディネーターとして、開拓者たちの背中を後押ししていくだろう。
What is
DASP
鉄骨加工に一業専心の大東精機だからできた合理化装置
孔あけ、切断に加え、鉄骨表面の研削、溶接の強度維持に必要な溝をつける開先(かいさき)までを全自動で行う鉄骨生産ライン。それまで4人の人員を要した一次加工の作業を、たった1人のオペレーターでまかなうことができ、ヒューマンエラーの防止にも効果がある。本来であれば4台の機械がこなしていた機能が一体化した大型ラインだけに、開発段階では各工程で発生する端材や微細な切りくずの処理が大きな課題に。不具合の原因にもなりうる高いハードルだったが、磁力やブラシによる除去装置を新たに開発することで発売にこぎ着けた。発売から20年近くが経つが、管理番号のマーキング装置、素材情報を自動判別するコードスキャナを搭載するなど、現在もあくなき改良が続けられている。
DAITO GYM-CLUB
フィットネスクラブも真っ青の社内トレーニングジム。マシンや各種器具は筋トレが趣味という杉本社長肝煎りのセレクトで、会員登録すれば無料で使えるというから驚かされる。利用促進を図ろうと、勤務時間中の「健康休憩」制度も導入。開設の翌年、2019年には健康経営優良法人に指定された。社長自身も毎朝利用するそうだが、「脂肪が落ちるばかりで、筋肉が大きくならないのが悩み」とのこと。還暦を過ぎてもスリムなのはうらやましい。
企業情報
大東精機株式会社
バンドソーマシン、ドリルマシンに代表される鋼材加工の領域で、国内シェア6割を誇る工作機械メーカー。国内における鉄骨の約半数は、同社の製品による加工がなされているという。開発・製造・販売・アフターサービスを一気通貫で手がけているのが最大の強みで、鉄骨加工業者からの信頼も厚い。
兵庫県尼崎市東初島町2-26
tel:06-6489-1202
fax:06-6483-2095
https://www.daito-seiki.com
沿革
- 1959年
- 尼崎市築地にて社長・千田豊、専務・杉本忠博の共同経営で創業
鋼材用バンドソーを開発 - 1967年
- 大阪市西淀川区佃に本社工場を建設
- 1971年
- 形鋼用バンドソーを開発
- 1973年
- 千田豊が死去、杉本忠博が社長に就任
- 1975年
- 形鋼用ドリルマシンを開発
- 1982年
- 尼崎市東初島町に本社工場を建設、翌年には形鋼加工ラインシステムを開発
- 1995年
- 米・シカゴにDAITO U.S.A., INC.を設立
- 1996年
- 形鋼用複合機(ドリル・丸鋸)を開発
- 2004年
- 形鋼加工全自動ライン・DASPを開発
- 2007年
- 形鋼用プラズマ切断機を開発
- 2009年
- 創立50周年。杉本真一が社長に、杉本忠博が会長に就任
H形鋼開先加工機を開発 - 2010年
- 形鋼用複合機(ドリル・バンドソー)を開発
- 2018年
- 形鋼用孔あけプラズマ切断複合機(ドリル・コーピングマシン)を開発
社内ジム・DAITO GYM-CLUBが利用開始