HOME経営者に、聞く海苔の老舗、再興への道のり
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経営者に、聞く。LEADER INTERVIEW

海苔の老舗、再興への道のり

株式会社山徳 代表取締役社長 汲田 博之

PROFILE株式会社山徳代表取締役社長汲田 博之

海苔メーカーに求められることなら、なんでもやる。期待にはとことん応える。
山徳の企業姿勢を端的に伝えるならば、こんな表現になるだろうか。

2021年、創業100年の節目を迎えた老舗は、「できない加工はない」が身上だ。
4代目社長の汲田博之氏に話を聞けば、天性の浪速商人の実像が浮かび上がった。

巣ごもり需要で麺類向けの小袋商品が好調

巣ごもり需要で麺類向けの小袋商品が好調

市場で叩き込まれた、商売人としての才覚

味付け海苔はもちろん、コンビニおにぎり用の海苔シート、大手回転寿司チェーン向けの焼き海苔、果ては小袋入りの刻み海苔、天かす、乾燥ねぎまで。大小さまざまな製造ラインが居並ぶ山徳の工場は同業他社に比べて圧倒的に手数が多いのが特徴だ。

そんな「海苔のワンストップサービス」を手がける同社を率いるのが、汲田博之社長。古希を目前に控えてもなお、旺盛なビジネス展開を続ける経営者の「勘」は、長い歴史を持つ大阪の市場で養われた。1970年代半ばの大阪木津地方卸売市場。創業者・汲田徳三郎の孫で、山徳の学生アルバイトだった汲田社長は、手練れの職人たちに揉まれていた。

「仕入れに来た寿司屋の大将が『いつもの!』。そのひと言だけでね。あのおっちゃんはどこの誰、どのグレードの海苔を何枚、かんぴょういくつ、全部把握しとかなあかん。どこに車を停めてるかも知らないと、積み込みを間違える。そしたら『このドアホ!』ですわ」

海苔が湿ることのないよう、手際よく作業を進める

海苔が湿ることのないよう、手際よく作業を進める

当時の山徳はメーカーとしては鳴りを潜めており、乾物の卸が主力。この逸話だけでも隔世の感があるが、まだ午前中の話である。正午に店を閉めて本社に戻ると、今度はミナミにひしめく飲食店への配送が始まる。そのころの納入業者は店から合鍵を託されており、誰もいない店内に商品と伝票を置いて帰っていたそうだ。もし納品ミスがあれば―推して知るべしだが、それでも汲田社長は「人が人を信用していた時代だった」と目を細める。

「新規営業もたいへんでね。ああいう大将って、職人肌で素材にはうるさいし怖い。有明と兵庫の海苔を見せて、分からんなりに講釈言いますやん。そしたら、それを裏で巻き寿司にして『どっちがどっちか当ててみい』って。5割の確率やから適当に『有明です』って答えたら、『お前、分かってるやんか!』。でも、そうやって気に入ってもらえたら、ずっと縁が続く。ありがたかったですわ」

手洗い、エアシャワーなどを励行、衛生管理は徹底したもの

手洗い、エアシャワーなどを励行、衛生管理は徹底したもの

まるで上方落語の新作でも聞いているような、なめらかな口ぶり。「不用意に敵をつくらないのが商人としての信条」とも語るが、その根本は往時の職人とのヒリヒリするような、同時に人情味あふれるやりとりに鍛え上げられたに違いない。

その後、兄で3代目社長の靖一さんから百貨店での催事を任され、干ししいたけのつかみ取りといった企画を打っては、結果を残した汲田青年。当初は売場担当者から長髪をとがめられていたが、ついには何も言われなくなった。学生ながらに商才を認められた経験は、確かな自信につながっただろう。

倉庫の様子

昼夜を問わぬ働きで、メーカーとして再興

足場も固まり、ほっとひと息―となりそうではあるが、ここでまた靖一さんから「指令」が飛んだ。新たにスーパー経営に乗り出すので、その陣頭指揮を執れというのだ。とうにアルバイトの域を超える働きを見せていた汲田社長に、首を横に振る選択肢はなかった。

得意先での「短期研修」を経て、松原市内にすぐさま開店。「見よう見まね」と謙遜しつつも、30坪の小さな店はほどなく日に100万円を売るようになり、視察の希望も相次いだ。続けざまにオープンさせた2号店は、初日から1000万円を売り上げる盛況ぶり。順調かに思われたが、近隣店舗との価格競争の激しさから、山徳は早くも次の一手を模索した。

移転当初は2ラインだったが、現在は10ラインを数えるまでに

移転当初は2ラインだったが、現在は10ラインを数えるまでに

最終的に行き着いたのが、かつて行っていた海苔の製造加工だ。ノウハウは失われ、工場も閉鎖されていたが、靖一さんはまたも「博之、お前が一番ええやないか」。スーパーの仕入れに営業、卸では宵積み、その合間に海苔の焼き方の研究―すでに社業に専念していたとはいえ、5時起床、1時就寝はざらという生活は約5年続いた。試作品を持ち込んだ先では、厳しい「ご指導」も待っていた。汲田社長、どうやらそんな運命にあるらしい。

山徳商店が手がけていた時代の「ニコニコ」ブランドのラベル

山徳商店が手がけていた時代の「ニコニコ」ブランドのラベル

かくして懸命の努力は実り、海苔メーカーとして再起を果たした山徳だが、1970年代後半から80年代前半は、手狭な工場がネックになった。転機は1985年。兄弟企業のニコニコのりが堺工場を手放すというのだ。1973年の分割後も良好な関係を保っていた山徳は、木津市場そばの本社敷地との等価交換を持ちかけ、交渉は成立。何を隠そう、今日のニコニコのりが拠点を置くその場所は、汲田社長が青春を過ごした地にほかならないのだ。

おにぎりはもちろん、手巻き寿司にも対応

おにぎりはもちろん、手巻き寿司にも対応

果断に果断を重ね、新たな市場の開拓へ

堺への移転後、物理的な制約から解放された山徳は、着々と生産体制を拡充。製造から配送までを一手に担うおにぎり海苔シートは、コンビニ業界の好況を受けて間もなく主力製品となった。一方ではスーパー事業をたたみ、卸で30年以上付き合った大口顧客とは契約を打ち切る決断を下して、メーカーとしての地歩を固めた。

「本業の海苔に特化して、売上の4割弱が飛んだ。経営上、一番勇気のいる判断やったと思います。確かに一時的には落ちたけど、なんとかなるもんやね。新しい設備も入れて、2年半で回収した」

おにぎり海苔シートの製造ライン

おにぎり海苔シートの製造ライン

業界に先駆けて製造ラインを多角化するとともに、新技術による特許取得を進めていたことが実を結んだのだろう。いつしか「山徳にできない加工はない」と評判になり、大手を含む同業他社からの注文が舞い込むようになっていた。相手先でまかないきれない領域を手堅くアシストし、コンビニや飲食店向けの「オーダーメイド品」との両輪で、収益向上に寄与した。常務だった汲田社長自ら、全国のメーカーを訪ね歩いたことも奏功した。

「祖母の口癖が『欲すれば与えろ』で。たらいに入った水を前に押し出すと、周りから返ってくるやないですか。商売だってそう。お客さんに尽くせば、必ず自分に返ってくる」

汲田社長の研究成果がいまも息づく

汲田社長の研究成果がいまも息づく

2005年、汲田社長は兄からトップの座を引き継ぐ。家業の発展に身を捧げ、新生・山徳の立役者となった4代目には、すでにじゅうぶんな経験値、そして商売勘が備わっていた。時流を読んだ経営判断はそのままに、いまや社長業も20年に迫りつつある。

「年数を重ねて、どういう選択をすれば失敗しないかはっきりしてきたんです。人間は考え込むとマイナス思考に陥りがちやけど、そうすると考えが鈍る。経験則も加味しつつ、スピード感を持ってやっていきたいね」

目下注力するのは、創業者の名を冠した一般向け商品「徳三郎」ブランドの普及、BtoC市場の開拓だ。来夏には本社近くに旗艦店のオープンも控える。生粋の浪速商人は、まだまだ現場から離れられそうにない。

直営店・徳三郎本舗の店頭で

直営店・徳三郎本舗の店頭で

本社前の自動販売機にはお値打ち品も

本社前の自動販売機にはお値打ち品も

What is

味のり 匠

70年以上前の秘伝レシピに、現代の技術を加えた名品

70年以上前の秘伝レシピに、現代の技術を加えた名品

1950年に味付け海苔の製造を開始した山徳。関西における先駆事例だったが、卸売業の好業績に押されて事業は下火になり、秘伝だれのレシピも行方不明となっていた。しかし、偶然にも汲田社長の実家で仏壇からレシピが発見され、それをもとに往時の味わいを目指したのが、徳三郎ブランド「味のり 匠」だ。開発には3年を費やし、発売後も頻繁にブラッシュアップ。北海道産昆布、枕崎産かつおぶし、和砂糖といった厳選素材による上品な味付けが、有明産一番摘み海苔の豊かな風味とパリパリ感、口どけのよさを際立たせる。「海苔業界は仕入れルートが共通なので、素材で差別化は図れない。安い海苔は基本的にどのメーカーも一緒なんです。そやから、たれと加工法に徹底的にこだわりました」と汲田社長。

のり海苔祭り

地元・美原に愛される企業であり続けようと、本社工場で年4回開かれる直売イベント。定番品はもちろん、通常は購入できない業務用製品も販売され、すでに60回以上の開催実績を数える。消費者と直接交流できることから、汲田社長自身も非常に楽しみだそう。「あんたとこの海苔食べたら、よその海苔食べられへんねん」との声も多く、「これからもファンを増やす機会にしたい」と意気込みもじゅうぶんだ。日程はホームページで要確認。

企業情報

株式会社山徳

木津市場の乾物商としてスタートした、味付け海苔のパイオニア企業。現在の堺市美原区に移転以降、多様な製造ラインを整備したことから、コンビニおにぎり用の海苔シートなど、BtoB商材に大きな強みを持つ一方、近年は創業者の名を冠した一般向けの「徳三郎」ブランドにも注力する。

大阪府堺市美原区大饗100-1
tel:072-362-2257
fax:072-362-3976
https://www.yamatoku.co.jp

株式会社山徳

沿革

1921年
汲田徳三郎、大阪市浪速区南高岸町にて乾物商・山徳商店を創業
1950年
株式会社山徳商店として法人化、味付け海苔加工工場稼働
1955年
高松宮同妃両殿下、本社工場をご視察
1956年
農林大臣賞受賞、1963年にも再度受賞
1973年
株式会社山徳商店がニコニコのり株式会社に社名変更、汲田靖一が代表取締役社長に就任。同時に海苔および食品販売会社として、現在の株式会社山徳を設立
1985年
前年に稼働を開始していた大阪市住吉区の海苔加工工場を、本社機能とともに堺市美原町(現・美原区)に移転。焼き海苔製造ライン2台を新設稼働
1989年
方向性フィルム横型おにぎり海苔シート包装機1台を新設稼働、刻み海苔小袋充填機4台を新設稼働
1993年
業界初となる焼き刻み海苔自動製造ラインを考案、導入。以後、レーザーマーカーによる板海苔印刷装置、ワンカット末広手巻き海苔製造ラインなど、業界の先駆けとなる新技術を次々に導入、多くの特許を取得
1998年
本社社屋、工場を全面建て替え。設備の更新を図り、衛生管理体制を強化
2003年
通販部門「徳三郎本舗」をオープン
2005年
汲田博之が代表取締役社長に就任、前任の汲田靖一は代表取締役会長に就任
2021年
創業100周年を迎える
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