経営者に、聞く。LEADER INTERVIEW
駆け抜けるべき道を見出して
PROFILE株式会社福本鉄工所代表取締役福本 豊氏
街の鉄工所を率いるその人の名は、福本豊。“世界の盗塁王”と同姓同名の経営者は、本家さながらに“足で稼ぐ”ことに徹して祖父が興した会社を安定軌道に乗せてきた。
フィールドとするのは極厚鋼板の精密溶断。物量勝負の大手には決してまねのできない、小回りの利いたビジネスの歴史と現在地を、物腰も柔らかな3代目社長に問うた。
復興需要から始まった“農から鉄”への転換
名刺に記された「世界の盗塁王」と一字たがわぬ名は、商談の場でどれほど役に立ってきただろう。鋼板のなかでも最大200ミリメートルまでの厚板の切断に特化する福本鉄工所の3代目、福本豊社長の語り口は豪快な人柄で知られる往年のスピードスターとは対照的だ。
「造船や建設といった重厚長大産業に相対する大手に比べれば、生産量は決して多くありません。ただそのぶん、機械部品、金型、補強材といった小口の引き合いを増やして、地に足のついた経営に徹してきました」
福本鉄工所のルーツは福本社長の祖父、竹松氏が終戦のその月に創業した小さな旋盤加工所。もとは一帯で農業を営む家系だったが、戦後の復興需要を見越して大胆な勝負に出たわけだ。ほどなく住友金属工業の鋼管製造所から管材削りの工程を委託され、近隣の農地を買収して工場を新設。1952年には法人化し、堅調に売上を伸ばしていった。
中小企業で200ミリメートルもの厚板を溶断できる企業はごく限られる
しかし、昭和40年不況が起こると、住金が下請各社を自社の新拠点に集める経営合理化策を断行。福本鉄工所からも旋盤をはじめとする工作機械が運び出され、せっかく築き上げた工場を持て余す格好になってしまった。これをよしとしなかったのが当時専務を務めていた義父、義蔵氏だ。すぐさま旧知の同業者に相談を持ちかけた義蔵氏は、鋼板のガス溶断に伸びしろがあると聞き、もぬけの殻になった工場の再生に着手。1968年には溶断事業を本格化させた。今日の福本鉄工所のアイデンティティを形成したのは、2代目が抱いた「大企業に頼ってばかりはいられない」との危機意識だったのだ。下請加工に自社溶断品の販売という新事業が加わったことで、同社はいっそうの成長を見ることとなった。
勘違いから「ファンレター」が送られてくることもしばしばだという
「景気も回復し、溶断を始めれば『切ってください』という依頼が続々と舞い込む状況だったようです。そのころ、私は生まれ育った尼崎を離れて実の両親と神奈川の厚木に暮らしていました。大学卒業までを関東で過ごし、福本鉄工所を営む義蔵と叔母の夫妻に子どもがいなかったことから、養子として尼崎に戻ってきたんです」
大学では農芸化学を修めた福本社長が、畑違いの鉄工所に入社したのは1980年のこと。近所の人からは「豊ちゃん、戻ってきたんやね」と温かく迎え入れられ、福本家が尼崎の地に根差していることを肌で感じた。最初に配属された住金の工場では機械加工を担当。やればやるほど成果が伴うものづくりの喜びに親しんでいった。
二軸経営に区切りをつけ会社の足腰をさらに強く
二軸経営が軌道に乗っていた福本鉄工所。住金の下請企業で組織した協業組合でも、約30年にわたり中心的な役割を果たしていたが、平成不況の影響もあって2000年に契約解消を言い渡されてしまう。職人としてひたむきに腕を上げていた福本社長からすれば、社会の厳しさを痛感させられる出来事だった。とはいえ、同時期の売上のうち3分の2ほどを自社溶断品が占めるようになっていたため、思いのほか切り替えは早かったという。特定の企業に依存する体質から脱却し、規模の大小を問わず多方面に守備範囲を広げて経営基盤を安定させる方向に舵を切るのも、ごく自然な流れだった。
生産機器の高度化も追い風に、働きやすい環境づくりへ多能工の養成に力を入れる
「同じ鉄を扱う企業でも、業界によって浮き沈みがあります。そこで業種横断的に得意先を確保しようと。専務時代には目ぼしい会社をあいさつ回りして、名刺と会社案内を置いていくこともしばしばでした」
得意先一つひとつの規模は小さいかもしれない。しかし、福本社長自らの「足で稼いだ」顔が見える関係性の束は、会社の基礎体力をより確固たるものにした。知人からの「商売は1人で判断してはいけない」という忠告を心に刻み、周囲の声に耳を傾けることもいとわず、取引にあたっては綿密な情報収集を欠かさなかった。
出荷に先んじて製品のチェックも入念に行われる
さらには義蔵氏が培ってきたガス溶断という昔ながらの工法を突き詰めたこともまた、企業価値を高めることにつながった。時を経て、プラズマ、レーザーといった精緻な加工技術が登場しても、極厚鋼板は昔ながらのガス溶断を用いないことには歯が立たない。厚板を小さいもので数センチメートル単位の部材にまで落とし込む技術は、溶断の世界において独自の地位を得るうえで、またとない武器になったのだ。
威厳があり、常にどんと構えていた義父の背中に学び、しっかり者の義母からは経営者としての処し方を吸収した。社長の座を引き継いだのは、2006年のことだった。
大手とは一線を画して自ら切り拓いた道を走る
創業80年に迫ろうかという自社の競争力を語る際、福本社長は価格、納期、品質の三拍子に加えて、サービスを挙げる。販売価格については努力を惜しまず、在庫情報や外注先の協力により、ベストな設定を提案しており多くの業種と渡り合ってきたがゆえに養われた対応力で、短納期と高品質を両立させる。また比較的薄い鋼板の精密溶断にプラズマ溶断機も導入し、信頼の置ける薄板加工メーカーともパートナー関係を結んでいる。これだけでもじゅうぶんな対応に思えるが、プラスアルファの心づかいが得意先からの信頼を生む源泉になっている。
[左]鋼板1枚を余すことなく使い切るのも得意分野
[右]安定した材料確保も信頼の源泉をなす
「自社で製品を配送するのはもちろん、曲げ加工、開先加工、溶接、機械加工、穴あけ、研磨というように、下流工程を任せられるネットワークを持つのが当社の強みです。福本鉄工所では引き受けられない仕事でも、長年お付き合いのある会社を紹介することはできる。困っている人を見れば助ける、いわば情の商売ですね」
鋼板の切断を担いながら、時として顧客と顧客をつないでもみせる。経営安定のために奔走してきた成果は、サービス面の充実にもおよんだというわけだ。現在、福本鉄工所の得意先は阪神間を中心に約150社を数える。いずれもコロナ禍や鉄鋼需要の低迷を乗り越えてきているとあって、それぞれに優れた技術を有しているのは想像に難くない。そうした企業と向き合ってきた福本鉄工所も同様に、有事にも揺らがないしたたかなビジネス展開を続けられているのだ。
得意先のニーズに応じて多様な形状に切り分けられた製品群
「大手がやろうとしない仕事をするのが我々が進むべき道だと考えています。裏を返せば、拡大志向のようなものはない。ニッチな産業との関係を維持していけば、商売はより底堅いものになるんです。新型コロナウイルスが猛威を振るったときにも利益を失いはしなかった体験が、そうした思いをより強くさせました。今後も身の丈に合った経営を貫きたいですね」
真摯に、そして堅実に。最新鋭の機器にも、物量にも勝る優位性を秘めた福本鉄工所は、これから先の時代も求められる企業であり続けるだろう。
What is
積極的な外国人雇用
持続可能な外国人雇用を実践し経営の安定化を実現
2024年現在、福本鉄工所で働く18人の従業員のうち、4人をミャンマー人が占める。オンラインでの面談を重ね、行政書士のサポートも受けながら、2019年に初めて現地の工科大学を卒業した2人を雇い入れたのが端緒だ。外国人技能実習生の問題が叫ばれるなか、早くから日本人と遜色のない待遇を取り入れるだけでなく、担当業務の振り返りや日常生活に至るまでサポートを徹底。食事やプライベートの悩み事の相談といったコミュニケーションを通して、地道に信頼関係を築いていった。そうした日々の積み重ねが当人たちのモチベーション向上につながり、約1年ほどで給与をベースアップさせてもいる。
2022年と2024年には「1期生」がそれぞれ婚約者を呼び寄せる形で、新たに2人を雇用。政情不安で就職が厳しいミャンマーから来日した1人は事務として、すでに京都で働いていた1人はCADのオペレーターとして、日本人とともにまじめな働きぶりを見せている。福本社長によれば「パートナーが身近にいることは心身両面で必ずプラスに働くと考えました」とのこと。早期離職が目立つ外国人雇用において、中小企業がここまでの成果を上げているのは珍しく、ビジネス系のメディアにも取り上げられるに至っている。「情の商売」は何も対外的なものに限られるわけではないのだ。
企業情報
株式会社福本鉄工所
1945年(昭和20)創業の鋼材加工メーカー。住友金属工業の協力企業として、旋盤による管材加工から事業を開始。社会情勢の変化を受け、現在は鋼板のなかでも厚さ4.5~200ミリメートルまでの厚板の精密溶断を専門とし、機械、金型、建材といった多様な領域に製品を供給する。
尼崎市南清水37-1
tel:06-6491-2727
fax:06-6491-2768
沿革
- 1945年
- 福本竹松が現在地に個人事業として福本鉄工所を創業、機械製造・加工を手がける
- 1950年
- 住友金属工業株式会社 鋼管製造所の管材削り工程を受注、専業化
- 1952年
- 株式会社福本鉄工所として法人化し、設備・機械の増設および整備を行い、生産性と加工精度の向上を図る
- 1967年
- 住友金属工業株式会社 鋼管製造所の関連企業15社とともに事業の協業化を進め、尼崎市東海岸町に尼崎金属工業協業組合を設立。生産性の向上、設備の省力化、技術開発、公害対策などに取り組み、経営基盤を安定させる
- 1968年
- 現在地にて厚板精密溶断品の加工および販売事業を開始
- 1970年
- 福本義蔵が代表取締役に就任
- 2000年
- 尼崎金属工業協業組合を脱退、厚板精密溶断および鋼板の販売を専業とする
- 2006年
- 福本豊が代表取締役に就任
- 2019年
- ミャンマー人雇用を開始