経営者に、聞く。LEADER INTERVIEW
“鉄の意志”で、技と人を継ぐ
PROFILEチヒロ鋼材株式会社代表取締役有田 善実氏
あべのハルカス、京セラドーム大阪、JR大阪駅。誰もが名を知る大型施設を人知れず支えるのが、継ぎ目材、補強材といった製品群を通して巨大構造物の骨格を固めるチヒロ鋼材だ。
鉄板の切断、穴あけ、研磨を一手に担う“鉄のエキスパート”が旗印に掲げるのは、鉄を、技を、人を、ひたすらに“継いでいく”こと。有田善実社長に、その真意を尋ねた。
家族経営の鉄工所が進化を求められたわけ
「我々はいわば、お客さまにとっての『機能』なんです」
超高層ビルから有名テーマパークまで、名だたる巨大建築を鉄鋼製品で支えるチヒロ鋼材・有田善実社長の口ぶりには、謙虚さと自信が同居する。同社が得意とするのは、柱と梁など構造物をなす部材同士をつないで強度や性能の向上に寄与する、継ぎ目材や補強材。明治以来の成熟産業である鉄鋼業界をフィールドにして半世紀あまり、技術分野も細分化した業界において「継ぐ」ことに特化し、その存在意義を確かなものにしてきた。
穴あけ加工では、用途に応じて最適な方法が選択される
とはいえ、ただ高品質なものを作り続けることが、競合他社との差別化につながる時代はとうに過ぎている。鉄板の切断機、ドリルをはじめとする産業機械が高度化、自動化するにつれて製品そのものは均質化。もはや職人の腕一本ではオンリーワンになれない、厳しい現実がある。それでも大手ゼネコンを頂点とする大規模開発にあたり、チヒロ鋼材に白羽の矢が立つのは冒頭で有田社長が口にした「機能」という言葉に集約されている。そして、その機能が一朝一夕に築かれたものでないことは、疑いようのない事実なのである。
チヒロ鋼材の源流は有田社長の父母、すなわち千尋氏と真寿子氏が数人の職人を抱え、大阪市内に開いた小さな鉄工所にある。1969年(昭和44)の創業当時は、鉄板の切断のみを手がけるごく普通の下請業者だった。トラック1台で地道に顧客を開拓し、安価な加工賃だけでは食べ盛りの3兄弟を養えないと、鉄くずの回収までこなす―有田社長が中学校に上がったタイミングで現場に駆り出されるのも、当然の話であった。
自動化が進展しても、バリ取りなど職人技による部分は大きい
「最初は梱包や石筆を研ぐところから始まって。70年代末はまだ石筆で目印の線を引いて、切断機にかける時代だったんです。いまでこそ機械制御の工程も増えましたが、隔世の感ですよね。指示待ちでいると声より先に手で『制御』する親父でした」
ちょうどそのころ、個人商店だった千宏鋼材店は現在も本社を置く堺に知己を得て拡大移転、ほどなく法人化を果たした。厳しい「指導」で腕を上げた有田社長は、高校を卒業しようかという時期には先輩職人と肩を並べて働けるまでに。運転免許も取得し、大学に通いながら製造と配送の双方を任されるようになった。そんな矢先の出来事だった。父が、根っからの職人気質だった創業者が、急逝したのである。母にとっても、職人にとっても、そしてまだ大学2年生だった有田社長にとっても、まさに青天の霹靂だった。
果敢に守備範囲を広げ会社の“機能強化”を図る
会社を続けるべきか、畳むべきかという選択は母子の肩に重くのしかかった。しかし、借金を残すわけにも、職人を路頭に迷わせるわけにもいかない。真寿子氏を新社長に外部から工場長と営業責任者を招聘し、会社はすぐさま立て直しに動いた。ただし、単なる「シャーリング屋さん」から脱却するという条件つきでだ。
「鉄板の切断だけでは先が厳しいという認識は、息子の私にもありました。そこで二次加工にも踏み出そうと。まず曲げ加工から着手し、近所の鉄工所が商売をやめるというので、ラジアルボール盤と得意先を譲り受けて穴あけにも乗り出しました」
工作機械を駆使しつつ、最終検査は人の手に委ねられる
穴あけに用いられるドリルは、切れ味の良し悪しが加工精度を左右する。手入れをこまめに外注して利益を大きく削ることもあったが、その反省が研磨機の導入につながり、これを鉄板の表面加工にも応用した。折も折、時代はバブル経済の真っ只中。業界に先んじるコンピュータ制御の生産ライン投入、工場の新築など積極的な設備投資を通じて、鉄板加工の一元化をリードしていった。
「従前の業界は工程ごとに業者が別々で、品質管理もままなりませんでした。ならば、上流から下流まで一括で担えればお客さまに喜んでもらえるはずだと。そこから、ワンストップの鉄板加工という方向性が固まったんです。もとを正せば利益追求のための内製強化でしたが、結果的に大きなプロジェクトに歯車のひとつとして組み込んでもらえるようになりました」
ゼネコンがあり、鉄鋼商社があり、鉄骨加工業者があり、チヒロ鋼材がある。現場に持ち出せば溶接するだけの特注部材は、施主からしても確実かつ簡便だ。反面、それだけの機能を有するパートナー企業はごく限られる。平成期を迎えた会社は関西を中心にユーザーと直結、数々の大型プロジェクトに参画していった。仕事に対する要求もおのずとハイレベルになり、技術面にも磨きがかかった。
多様な切断技術で1枚の鉄板を無駄なく使い切る
誰かを喜ばせるために“継ぐ”ことに徹する
もっとも、新規事業や積極投資ばかりがチヒロ鋼材を現在の地位にまで押し上げたわけではない。有田社長が強調するのは、客先それぞれに合わせた「オーダーメイドの仕事」に徹するスタンス。外回りのたびに顧客のニーズや特性を把握することに努めているといい、その蓄積が安定受注を実現させている。
「作業手順はもちろん、発注方法、保管場所、梱包と、鋼材がひとつの構造物をなすまでにはさまざまな要素がからみ合います。これらの段取りは得意先によって異なるだけに、きちんと押さえておかないとまったく同じ製品が作れたとしても工期が1.5倍になることさえある。とはいうものの建物全体に使われる材料のうち継ぎ目材、補強材が占める割合は10〜15%に過ぎず、お客さまが内製するには経済的とはいえません。そんなかゆいところに手が届く存在でありたいんです」
常時3000トンもの鉄板を在庫する和歌山工場。巨大な鉄の板が二次加工に適した形に姿を変えていく
災害の多い日本において、人々の安心・安全を担保する部材を取り扱っている誇りもあろう。「安く」「早く」を追い求めようなどとは考えていない。オーダーメイドを実現できるだけの手数を取り揃え、顧客を喜ばせること。建築という「完成品」を形成するだけの機能を備えたパーツを、確実に送り出す「機能」を果たすこと。角度を変えて見てみれば、チヒロ鋼材という企業それ自体が建築という営みを機能させる「パーツ」といえるだろう。
開先加工機と加工が施された鉄板の断面。より強度が求められる部材に用いられる技術だ
2001年に社長の座に就き、経営者人生も四半世紀に迫ろうとしている有田社長。その視線は、チヒロ鋼材という会社を自社製品が持つ役割同様に「継いでいく」ことに注がれる。
「お客さま、社員、社会とのつながりを継いでいく。技術を継ぐことも大事ですが、とにかくチヒロ鋼材を人を喜ばせる機能として存続させていくことが私の責任だと考えています」
堅実な仕事を、社会インフラを黒子として支えるミッションを、揺らぐことなく継いでいく。愚直かつ戦略的に積み重ねてきた取り組みの延長線上に、さらなる飛躍が待っている。有田社長の理知的な語りは、そんな将来を予見させるものだった。
What is
和歌山工場
一次加工の大規模拠点として生産の効率化に貢献
チヒロ鋼材の主力製品は、建物の柱と梁を連結するスプライスプレートと呼ばれる部材。建物の特性や使用場所によって多種多様な形状があるが、加工の基礎となる鉄板の切断工程、すなわちシャーリングの多くを手がけるのが和歌山工場だ。ここで切断された鉄板を本社工場に持ち込み、穴あけ、表面加工といった二次加工を施すのが、同社の大まかな事業スキームとなっている。和歌山県の中山間地域に位置する工場には現在、約20名の社員が勤務。地方に仕事を創出すると同時に、外国人も日本人と同様の待遇で雇用している。ちなみに1991年の工場設置を陣頭で指揮したのが、他ならぬ有田社長。
「母から突然ドライブに誘われて、連れてこられたのがこの場所で。一面の雑木林を前に『ここ、買ったから』と言われたときは面食らいましたね」と、真寿子氏の驚くべき行動力もいまでは笑い話だ。しかし、思わぬチャンスを逃さなかった有田社長。事業計画、資金調達、さらには当時としては先駆的だったIT技術の導入など、新工場設立は経営者としての道を歩むうえでのまたとない「予習」になった。シャーリングの一方では、鋼材同士を継ぎ合わせるための「のりしろ」をつける開先加工の拠点としても機能。精緻な加工技術は、取引先との信頼をより強固なものにする「機能」を果たしている。
企業情報
チヒロ鋼材株式会社
1969年(昭和44)創業の鋼材加工メーカー。厚さ1.6~60ミリメートルの鋼板を扱える対応力を武器に、一般住宅から超高層ビルまで多種多様な建築向けに継ぎ目材、補強材を製造。堺の本社工場に加えて和歌山工場を構え、上流工程の多くを託すことで生産の能率性を追求している。
堺市中区楢葉162-1
tel:072-236-3530
fax:072-234-2576
URL https://www.chihiro-kouzai.co.jp/
沿革
- 1969年
- 有田千尋が千宏鋼材店を創業
- 1973年
- 現在の本社所在地に厚板シャーリング工場を開設、千宏鋼材株式会社として法人化。資本金300万円
- 1978年
- 有田真寿子が代表取締役に就任
- 1979年
- チヒロ鋼材株式会社に社名変更
- 1985年
- 工場を増築するとともに、事務所棟を新築
- 1986年
- 資本金を1,000万円に増資
- 1989年
- 堺市楢葉156に第二工場を設立
- 1993年
- 和歌山県有田郡広川町下津木に和歌山工場を設立
- 2001年
- 有田善実が代表取締役に就任
- 2005年
- 関連会社として有限会社チヒロアソシエートを設立
- 2023年
- 3月3日、会社設立50周年を迎える
- 2024年
- 耐震化やブランド価値向上を目的に、本社工場に大規模な改修工事を実施