経営者に、聞く。LEADER INTERVIEW
使命を胸に、進むべき道を征く
PROFILE株式会社新征テクニカル代表取締役與那嶺 まり子氏
少数精鋭の職人集団のトップは、懐の深い女性社長。これを意外と見なすのは、もはや時代遅れだろう。
父が興した新征テクニカルを率いること8年あまり。自動車生産ライン向けの金属部品を供給する同社は、徹底したスマートファクトリー化を図ることで、創業以来の技術の伝承と革新を進めている。
新征の飛躍という使命を背負う與那嶺まり子氏に、❝愛ある仕事❞の内実と、その大切さを問うた。
末娘の心を固めたのは 父からの❝英才教育❞
年間約3万点 ― 従業員わずか10名の街の鉄工所が生み出すのは、国内自動車メーカー各社で活躍する生産ラインの構成部品だ。マテハン大手・ダイフクを主要顧客に、躯体からブラケットまで大小さまざまな金属製品を供給。もちろん、そのどれもがオーダーメイドである。言うなれば、日本の基幹産業の「作る」を「作る」ことこそ、新征テクニカルに課せられた使命なのだ。
同一製品を数千個単位で受注することもしばしば。 自動パレット交換装置を備えたマシニングセンタで短納期にも柔軟に対応する
会社の起源は與那嶺まり子社長の父で溶接工だった伸夫氏が、個人事業として新生製作所を構えた1965年(昭和40)にさかのぼる。当初は地元・尼崎市内に工場を置くも、ほどなく手狭になり鉄加工業者が集中していた豊中に移転。溶接だけでは先細りする一方だと見抜いた伸夫氏は、迷いなく人員を強化して機械加工にも乗り出した。新領域を切り拓いた急先鋒は、省エネ時代の到来に応える熱伝部品・ヒートパイプ。続いて松下電器産業(当時)のビデオデッキの外装を任されるなど、創業者の先見の明は確かな成果を上げていった。
尼崎ものづくり未来の匠選手権で表彰される従業員を輩出するなど、 優れた溶接技術は着実に若手へと受け継がれている
昭和50年代に入ると、思わぬオファーが舞い込んでくる。新生製作所に近い大阪国際空港線沿いに新工場を構えたダイフクが、自動車生産ラインの部品製作を依頼してきたのだ。海外進出を本格化させつつあった成長企業直々の願いを受け、伸夫氏は北摂でもいち早くマシニングセンタを導入。材料調達から製缶、機械加工までをワンストップで手がけ、今日の会社の礎を築いた。溶接なら溶接、機械加工なら機械加工と分業制が通例だった当時、間接費を大幅に圧縮する一貫生産体制は革命そのものだった。
創業者・伸夫氏が最後に作ったパターと死の直前に記した「今年の目標」。 現在の新征テクニカルが目指すべき方向は30年近く前に固まっていた
驚くべきは、伸夫氏の行動力だ。閑散期ともなれば「ご近所」の巨大企業に単騎で乗り込み、半製品を回収しては仕上げて戻しを繰り返す大胆かつ地道なアプローチで、切っても切れない需給関係をつくったのである。「新生のおっちゃん」の剛腕ぶりはダイフク社内でも評判となり、1991年に同社がタイに現地法人を構える際にも技術協力の形で深く関わった。その背中を目の当たりにして育ったのが、他ならぬ與那嶺社長だ。
「小学3年でNC旋盤の扱いを習いました(笑)。4姉妹なのに、なぜか次姉か私にだけお鉢が回ってくるんです。『松下の社食はサンドイッチがうまいぞ』って、長期休みには決まって岡山のビデオデッキ工場に駆り出されて、ボルト締めを手伝っていました」
父は、人を見る目も確かだったのだろう。いつしか末娘は、男社会を生き抜く度胸と技の継承への使命感を備えていた。
大きな危機に瀕してもぶれない胆力で一歩前へ
国際基準のものづくりの一端を担い、持てる技術を練磨してきた新生製作所は、1992年に新征テクニカルの名で法人成りを果たす。「新たな技術を征服する」との決意がにじむ旗印のもと、心機一転を図った與那嶺一家と職人集団。だが、そのわずか3年後に会社を揺るがす一大事が襲う。阪神・淡路大震災のショックも冷めやらぬ1995年1月末、伸夫氏が工場で急に倒れて帰らぬ人となったのだ。大黒柱が失われ、巨額の負債が残った。いま以上に女性進出の乏しい業界だっただけに、会社の将来を案ずる声も聞かれた。しかし、顧客や従業員、その家族に背は向けられない。與那嶺社長の母・雅子氏が急遽経営を引き継ぎ、親子ともども腹をくくった。
個々人の得手不得手を把握し、適材適所の人材配置で組織力を強化
「高校を出てすぐはOLを経験しましたが、2年足らずで呼び戻されて。そこから父の死まで溶接はもちろん、サンダーやタガネの扱い、トラックの運転まで新征の仕事の一切を叩き込まれました。きれいな制服に憧れていたのに、作業服に軍手でね(笑)。そうやって揉まれてきたから、やらずに迷惑をかけるならやる方がいいって、母を励まして。案外、すぐに前向きになれたんです」
トップの覚悟が響いたのか、従業員も新征を去らずに実直に仕事に打ち込んだ。90年代半ば、ダイフクが大阪の生産機能を滋賀に移す決定を下すと、社内外を問わず面倒見のよかった父を慕う同社OBが新戦力として加わった。「技は盗め」という典型的な職人肌の人物だったが、還暦を迎えたのを機に20代の若手をその上司に抜擢する「逆転人事」を敢行。文字通りの肝っ玉母ちゃんという雅子氏の面目躍如で、世界を相手に戦える溶接技術の水平展開に成功した。自動車生産のグローバル化も追い風に業績は徐々に回復し、2004年には再び尼崎の地に拡大移転。自動車向けはもとより、省人化の流れが著しいロジスティクス関連の部品製造にも守備範囲を広げていった。
革新を重ねる理由は❝技❞を未来に残すため
ベテランは若手の「父」や「祖父」のような存在に
與那嶺社長が雅子氏から経営のバトンを託されたのは、自動車メーカーの工場再編が相次ぎ、製造業全般で働き手不足が叫ばれていた2015年。需給の逼迫と人材難という相反する課題に、スマートファクトリー化の徹底という方針を打ち出した。特筆すべきは、ベテラン勢の反対を押し切ってまで溶接ロボットを導入し、往年の職人技を自動化したことだ。溶接・溶断の双方が可能なロボットは、昼夜問わず飛び込む大規模受注も淡々とこなし、熟練工とて抗えない数々のヒューマンエラーを克服した。さらにマシニングセンタ、NC旋盤といった既存設備にも更新をかけ、共通プログラムによるひもづけを行うことでいっそうの効率化を図った。
こうした動きには、コロナ禍を経て世代交代が加速した事情も関連している。2024年現在、新征テクニカルを支える技術者の半数は30代以下の若手だ。日常的なメンテナンスから的確な材料選択に資する図面の読解力、正しい手順を踏んだ精緻な溶接、そして複数台の機器が同時に稼働する生産工程のマネジメントまで。これら歴代職人が築いてきた「機械化できない仕事の髄」を継承・発展させていくためにも、社員教育にかける時間の創出は不可欠な要素だった。
人の手では「揺らぎ」が生じる作業はロボットに、より精緻な加工が求められる作業は人にと役割分担。機械も「この子」と呼ぶのが與那嶺流の愛情表現だ。
「ものづくりの根本って、一つひとつの作業に愛情を込めることだと思うんです。機械がいくら進歩しても、使い方を誤れば粗悪品ができてしまう。仕事に愛が伴わないことには、信頼される製品は作れないんです。たったひと削りが、掃除が行き届いているかどうかが品質を左右するという意識づけ自体が、人間にしかできない技。会社を残すに越したことはないけど、看板以上に大切なのは新征が培ってきた技なんです」
小中学校からの職場見学も積極的に受け入れており、工場案内は手慣れたもの
時代の要請に応えるごとに、テクノロジーが高度化するごとに意味を増す、愛ある仕事。その実践者たちに目をかけ、たゆまぬ努力を世に認めてもらうことこそ、與那嶺社長の本懐であり使命だ。名より実を取る彼女の姿勢は、会社のさらなる成長にとどまらず、ものづくりという営みの裾野を広げる未来さえ予感させた。
What is
STS
高度な職人技を自動化し、人的資源を最大限活用
「スマート タイムマネジメント システム」の頭文字を取った、與那嶺社長肝いりのスマートファクトリーシステム。人間であれば習得に10年はかかる技術を、溶接ロボットに代表される製造機器にインプットすることで工程の多くを自動化し、夜間を含む長時間操業を実現する。なかでも社内で改良を施した溶接ロボットは、加工品そのものを自在に旋回させるターンテーブルが特徴で、あらゆる角度からの精緻な溶接が可能になっている。
一連の改革から生まれた時間的なゆとりは、先人の残したレガシーの習得、働き方改革に効果を発揮する一方で、顧客ニーズの変化に対応するうえでも大きなメリットに。ここ数年、自動車各社では汎用ラインが一般化しており、伸縮可能な装置の導入で複数車種を同一ラインで生産できる体制が構築されつつある。その構成部品に関しても、組み立て時の「遊び」を考慮する必要があり、ただ図面通りに作るだけでは足りないのが実情だ。そこで、新征テクニカルではエンドユーザーである自動車メーカーのもとを訪ね、自社工場で黙々と作業に打ち込むだけではつかみづらい勘どころを把握、技術力や生産性の向上につなげている。もっとも、国内基幹産業の核心部に入り込めるのも、創業者である伸夫氏が形づくった信頼というレガシーあってのことといえるだろう。
企業情報
株式会社新征テクニカル
1965年(昭和40)に與那嶺伸夫が創業した金属加工メーカー。溶接業に端を発し、のちに自動車生産ライン、物流システムといった搬送機器を構成する部品製造に特化し、業界でも独自の地位を占める。2022年には物流領域を専門とする子会社を立ち上げ、いっそうの体制強化を図る。
尼崎市西長洲町2-2-48
tel:06-6482-6887
fax:06-6482-6841
URL https://shinsei-teku.com
沿革
- 1965年
- 與那嶺伸夫が尼崎市長洲に新生製作所を設立、各種産業機器や部品設備の設計・製作を開始
- 1971年
- 本社を豊中市庄内宝町3-5-30に移転
- 1985年
- 本社を豊中市庄内宝町1-7-31に移転
- 1992年
- 株式会社新征テクニカルとして法人化
- 1995年
- 與那嶺雅子が代表取締役に就任
- 2004年
- 本社を現在の尼崎市西長洲町2-2-48に移転、業務拡大を図る
- 2015年
- 與那嶺まり子が代表取締役に就任
- 2020年
- 「ひょうご中小企業技術・経営力評価制度」において、
優良企業認定 - 2021年
- 「兵庫県成長期待企業」に選定
- 2022年
- ダイフクが物流部門の拠点を置く滋賀県に、
生産効率向上を目的とした子会社・株式会社Leapを設立