経営者に、聞く。LEADER INTERVIEW
鳥の老舗に、周到な段取りあり
PROFILE株式会社鳥芳代表取締役社長井元 克典氏
明治半ばの創業から、大阪の食鳥産業を支えてきた。高級食材だった鶏肉は、庶民の手に届くものになった。
食の近代化、多様化とともにある鳥芳の歩みは、日本人の暮らしぶりがいかに変容してきたかを物語る。
140年に迫る歴史を先頭で引っ張る井元克典社長は、自らを「凡人」と評する飾り気のない人柄だ。
しかし、その口から語られたのは確固たる経営哲学。
周到な段取りと、その背景にある覚悟を聞いた。
若き職人の姿に感じた 父という存在の大きさ
2025年に創業140年の節目を迎える鶏の老舗、鳥芳。
鶏一羽をまるごと使い切り、品揃えは出色。「朝びき」は首都圏ではまずお目にかかれない
新鮮な生肉に加えて唐揚げや焼き鳥、ローストチキンなど多種多様な惣菜を取り揃え、阪急をはじめとする百貨店やスーパーマーケットに強固な販売網を敷く、関西を代表する鶏肉専門店のひとつだ。旗艦店を置く阪急うめだ本店の地下には、2フロアにわたって約180種もの商品が並ぶ。
商品によっては店内加工も駆使し、品質を担保
「銘柄鶏を扱うのは当然として、うちの自慢はやはり鮮度です。すでに解体された肉を陳列するのではなく、丸鶏の状態で仕入れて店ごとにさばく。すると夕食の時間帯にはほどよく熟成が進み、うまみの凝縮された肉になる。百貨店での小売を主体とするだけに、職人技の継承による品質担保にも努めています」
すらりとした長身そのままの落ち着いた口調で自社を語るのは、井元克典社長。大学までバレーボール漬けで過ごしたスポーツマンは高校時代、1学年下に現・女子日本代表の眞鍋政義監督を擁して全国制覇の偉業を成し遂げてもいる。
学生のうちは好きなことをしろ―現会長で父の弘氏のいう言葉を存分に体現したぶん、社会人の仲間入りを果たして以降は鳥芳の看板を引き継ぐ立場として地道な研鑽に励んだ。すぐさま家業に入ることはせず、最初に門を叩いたのは横浜の鶏肉専門店。関内、桜木町といった繁華街に割拠する飲食店を相手に、包丁さばきや物の流れの一切を学ぶなかで、10代からの叩き上げとの間に越えられない壁があることを悟った。「大卒の自分とはまるで動きが違う」という彼らの姿に、職人気質で熱血漢の父が重なって見えた。
かくいう弘氏は、小売専業という今日における鳥芳の立ち位置を確立させた、いわば中興の祖だ。その才覚が発揮されたきっかけは、昭和30年代に入ってアメリカからブロイラーがもたらされたこと。往年の廃鶏よりはるかに生産性に優れる食肉品種は、牛肉以上に高価だった鶏肉の価格を一気に押し下げた。これに着目した弘氏は、食の多様化に応えるべく同業に先駆けて缶詰や燻製などの加工品を次々に開発し、生肉との二枚看板に育て上げたのだ。いまひとつ、特筆すべきは先代以来の卸売業からの撤退である。ブロイラーによる生産増大は養鶏場を大規模化させ、必然的に地方移転を加速させる。つまりは大阪という大都市に拠点を構える以上、流通機能を据え置くことはリスクを生むと判断したのだ。時は1969年(昭和44)、スーパーマーケットの勃興が大量消費時代の到来を告げようとしていた。
2人の経営者の背中に 身の処し方を学び取る
井元社長が少年時代を過ごしたのは、まさに父が鳥芳の中心人物として辣腕を振るうころだった。70年代から90年代にかけての阪急の多店舗化に呼応して出店攻勢をかけた鳥芳は、売場にもひと工夫を加えることでブランド価値向上を目指した。陶製の大皿に商品を盛りつける現在のスタイルも「魅せる」ためのアイデアだ。
「少しでも鶏を美しく見せようと特注の有田焼をあつらえるほどの入れ込みよう。業界団体の会合では自ら腕前を披露することもしょっちゅうでした。地域ごとにばらばらだった鶏肉の部位の名称に統一規格を与える際にも中心的な役割を果たしていますが、いずれも周囲の模範でありたいという熱意ゆえの行動だったはずです」
自社の利益追求にとどまらず食鳥産業全体の地位向上にも尽くした父。我が子に「好きなことをしろ」と語ったのも、自ら業界を牽引したいがための「言い訳」だったのかもしれない。弘氏は還暦を前に会長に退くが、それでも業界団体の要職を歴任し、75歳まで現場に顔を出していたというから恐れ入る。
クリスマス前後の繁忙期には自らも現場に立つという井元社長
さて、ひるがえって井元社長である。横浜での武者修行を終えた青年が鳥芳に加わったのは、バブル経済の真っ只中。昨今のそれを思わせる働き手不足のさなか、人事として人材確保に奔走したほか、新店開業や百貨店との折衝にも携わるなど泥臭くキャリアを重ねた。もちろん、店舗や工場でも汗をかいた。たとえ専務という肩書きがついても店で焼き鳥を焼き、従業員と向き合った。
創業家以外からは初めての社長で、流通業界との太いパイプを活かしてバブル崩壊の荒波を乗り越えた和田融氏からバトンを受け取ったのは1999年、38歳のときだ。職人肌の父、実務家タイプの和田氏双方のリーダーシップに触れた井元社長が志したのは、オーナーシェフ的な経営者像。1世紀をゆうに超える技の蓄積をよりシステマチックなものに変えるべく、歩みを始めた。
時代の要請に応えうる❝段取り経営❞を貫いて
衛生管理が徹底された本社工場。香りづけには最高級の紀州備長炭を使用している
「現場にいたころはとにかく必死。年末の繁忙期に機械が故障して大わらわになることもありました。職人的なセンスの持ち主ならうまく切り抜けるのでしょうが、『凡人』にはそうはいかない。そこで意識するようになったのが段取りの大切さです」
若かりし日をこう振り返る井元社長は、徹底した業務効率化を進めた。就任以前からの腹案だった惣菜工場の移転・新築に際しては、構内レイアウトを全面指揮。新たにコンベア式のオーブンを導入することで、どの商品にも共通する火入れを自動化し、仕上げの工程に人員を集中できるようになった。先進的な衛生管理体制は作業内容の標準化にもつながり、誰の手を経ても安心・安全な商品づくりを可能にした。「凡人」ゆえになしえた改革は、従業員一人ひとりに働きやすさを提供する段取りそのものだった。
社長業を務めて四半世紀近く。一歩引いた視点から現場を見るようになり、もはや「飛ぶ鳥を落とす勢い」とはいかないことは誰よりも理解している。人手不足に悩むのは老舗とて同じ。目下、限られたマンパワーを重点的に投下するのは冷凍の焼き鳥や揚げ物といった半加工品だ。当日中に消費する惣菜とは違い保存が利くことに加え、パン粉や調味料にもこだわることで、先のコロナ禍から堅調に売上を伸ばしているという。
「唐揚げや焼き鳥の持ち帰り専門店が目立つように、ここ最近の惣菜市場は飽和状態です。そこで競い合うのではなく、よりニッチな方向で勝負しようと。ただ、次は何をするのかと聞かれても答えられません。コロナや物価高に象徴されるように、先を見通すことは容易ではない。その時々のニーズとは何か、感性を研ぎ澄ますだけです」
物量や人海戦術に物を言わせる段階はとうに過ぎた。とすれば、経営の行く末はいかに顧客チャネルを広げられるか、人的資源を有効活用できるかにかかってくる。とはいえ、これも現時点での見立ての域を出ない。食のありようも経済状況も変化が読みづらくなるなか、周到に段取りを重ねることの意味合いは、ますます大きくなることだろう。
What is
食鳥文化の生き字引
食鳥文化の庶民化を知る歴史の証人としての顔も
井元社長の曽祖父である弥三郎氏が弱冠18歳で鳥芳を興したのは、大阪湾にほど近い九条の街。花街に近く確かな収益が見込めること、近隣を流れる安治川を介して生産地から安定して鶏を確保できることが決定打だった。明治半ば、冷蔵庫のない店は生きた鶏の解体から加工、配達までをこなしており、日に10羽も売れば食うに困らないほどだった。
やがて難波新地に移転すると料亭経営や卸売業も手がけるようになるが、何よりインパクトを残したのは1920年(大正9)、当時の阪神急行電鉄と取引を開始したことだ。小林一三の沿線開発で開かれた宝塚温泉を端緒に、阪急マーケット、その後身で電鉄系百貨店の先駆けである阪急百貨店に商品を納入。阪急の売場には当時としては画期的だった冷蔵ケースがお目見えし、話題をさらった。いわゆる大大阪時代は、鳥芳にとっても大きな飛躍のときとなったのである。
戦中、戦後の混乱期を経て企業としての「復興」を果たそうとしていた途上では、日清食品の創業者である安藤百福が足繁く店を訪れ、鶏ガラを大量購入していたというエピソードも。何を隠そう、チキンラーメン開発の裏側には鳥芳の存在があったのだ。その歴史に名だたる経営者の名が登場するのも、かつて高級食材だった鶏肉が大衆化するまでの過程を知る会社ならではだろう。
企業情報
株式会社鳥芳
1885年(明治18)創業の鶏肉専門店。阪急、髙島屋といった百貨店、エイチ・ツー・オー リテイリング傘下のスーパーマーケットへの販売網を誇る。生肉と惣菜という事業の両輪に加え、近年は冷凍商材やECサイトの拡充など、時代のニーズに合わせた柔軟な経営戦略を展開する。
大阪府大阪市西淀川区福町1-6-6
TEL:06-6477-9577
FAX:06-6477-9578
沿革
- 1885年
- 井元弥三郎が料理店での丁稚奉公を経て鳥芳商店を創業、鶏肉小売業を開始
- 1907年
- 難波新地に移転、小売に加えて卸売、飲食業にも進出
- 1920年
- 阪神急行電鉄(当時)直営の宝塚温泉に納品を開始
- 1925年
- 阪急マーケット(現・阪急百貨店)に納品を開始
- 1934年
- 井元弥一郎が2代目店主に就任
- 1945年
- 戦争の影響で中断していた阪急百貨店への納品を再開
- 1958年
- 株式会社大阪鳥芳商店に改組、井元弘が専務取締役に就任
- 1961年
- オアシス(現・阪急オアシス)の一号店である高槻店に出店
- 1969年
- 社名を株式会社鳥芳に変更、井元弘が代表取締役に就任
- 1992年
- 井元弘が代表取締役会長、和田融が代表取締役社長に就任
- 1999年
- 井元克典が代表取締役社長に就任
- 2005年
- 現在地に新社屋が完成